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Kyoto Sanga F.C. & Takarazuka Review and etc.

宙組『王家に捧ぐ歌』宝塚大劇場

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オペラ『アイーダ』は映像や来日公演を見たことがあるけれど、宝塚の『王家』は映像でもダイジェストでしか見たことがなく、そういう意味では新鮮な気持ちで見てきました。

何をおいてもですね。みりおんアイーダが本当によかった。ほんっとにね! TOPHATでも感じたけど、せっかく歌える娘1なんだから、もっともっと歌わせたらいいのに。

まぁくんのラダメスは私が見たオペラ『アイーダ』よりも年若くて、その分向こう見ずな印象のラダメスでした。戦士として将軍として順風満帆故の傲慢さというか、予断があるというか。

うららアムネリスはSSで見たらほんっとに神々しかったです。さすが。…けど相変わらず高音の出がいまひとつ……努力してないわけがないんだろうから、ここはもう元々の声帯の構造的に無理があるのかしら……

あのキラキラのお衣装、重そうだと思ってたらほんっとに重たいんだとか。今回のエジプト側のお衣装、どれもこれも重そうとか暑そうとかいう言葉がついて回る形ね……。


それはそうと、アイーダ側の女囚達といい、アムネリスの女官達といい、どっちもスゴツヨな顔ぶれ過ぎて(女囚にはあおいちゃんとかあこさまとかきゃのんちゃんとか)(女官にはせーことかえびちゃんとか)……男たちが戦う前に女囚がクーデター起こしたほうがエジプトひっくり返るんじゃね、っていう顔ぶれでした。どちらもコーラス半端ないしね…

そして女官のありさとららちゃんのぶりっ子コンビが……なんという適材適所か。

エジプト軍では……でんれーのてんれー。

ほんっとに「でんれー!でんれーーーー!」って駆け込んできて……いやぁ名前売りましたねぇ……(もうそんな学年じゃないけど)。同じく伝令の翔とそらといい、また濃いメンツの伝令なもんだから、死んだ後、次の場面にも(伝令ではない)兵士として出てるから(それも並んで)壮絶違和感。

同じ伝令とはいえ、ちょっとハイクラスなのがもえこ。勝利を伝える伝令だからか、身なりも良くしてマントもつけて、何より女達の所にも行けるくらいの伝令。もえこは今回、ファラオの側で黄金の剣を持っていたり、何より、幕開きすぐに真風を痛めつけていたりで立ち位置が真ん中に寄ってきたなぁ……新公でもとても好評だったようで、「私結構早くから目をつけていたのよ!」と仲間内にドヤ顔をしてみたり。

ラダメスの友人(友人!?)というあいちゃんとずんちゃん。……ともだち……? 回を重ねるごとに距離は近づいているようにも思えましたが、当初は完全に弟分でしたね……。それにしてもあいちゃんとずんちゃんという育ちの良さそうな二人はきっとエジプトでも名のある貴族の子弟なのでしょうねぇ……。

他のエジプト軍といえば、対エチオピア戦線で娘役のエジプト兵がとてもいい顔でエチオピア兵をめった刺しにしていて……いやぁ可愛くて恐ろしい。

その場面でめった刺しにされている(いくら刺されてもなかなか死なないあたりゾンビくさい)エチオピア兵なのですが、揃いも揃ってすんごい顔をしていてですね……まして、目を見開いたまま死んだ後も一切まばたきをしないだとか、エチオピア兵の人選がほんとに芝居巧者揃いでさすがです。

で、真風ウバルド。あっきーとりくと3人で幕開きから「4500年さまよって……」……いや、迷いすぎじゃね(思わずツッコミ)。りくの末っ子オーラが半端ないんですよ今回。真風の黒塗りが地黒じゃねっていう位こなれているのはさておき、ほんとにりくのつぶらな瞳といい、何この末っ子(わんこ属性)。アイーダに対し、他の二人が「奴隷になった」と糾弾する場面でも、一人だけアイーダの手をとって訴えるし。……しかし末っ子属性強すぎて、暗殺に際して何か決定的な仕事をしたのかどうかは不明。

どうでもいいけど、エジプトとエチオピアの戦争の裏には宗教戦争もあるんじゃないの、って思うシナリオでした。お互い「神が」というけれど、エジプトとエチオピアのいう「神」はそれぞれ違う存在だと感じました。なんとなくなんだけど、エチオピアの言う「神」はどちらかと言うと西洋的な「神」の概念に近い感じで、エジプトは土着(知名度高すぎて代用不可)の神というか。

ついでに言うなら勝利をもたらす将軍の名をなぜ「イシス」が伝えるんだろう……そこはハトホルじゃないのかとか、疑問を呈したらきりがないのは『アイーダ』でも『王家』でも同じで。ぶっちゃけ私、『アイーダ』は好きだけれど、シナリオ自体はほんっと「ないようはないよう」だと思うんですよ……ええ……西洋人がエジプトを舞台にそれっぽいお話を作りました、っていう感じで。だから時代背景とかもほぼほぼ無視されてるし。ただ、音楽は文句なしに最高。

だから『王家』でもそのへんはまぁしゃーなし……と思っていたのですが。原作のそのむりくり部分をそのまま移植しなくてもよかったんじゃないの……首都をメンフィスじゃなくテーベにするだけでおおよその無理矢理感は薄れるし、石室にこもる場面で謎のアブシンベル大神殿みたいな建造物の時代錯誤感もなくなるし。

何より、『アイーダ』の中で一番アレな、地下に閉じ込められたラダメスが死を待つ我が身に絶望し、絶望の中で「でも愛するアイーダは奴隷の身から開放されて生きている」と希望を見出す場面。その直後にアイーダもまた同じ地下に閉じ込められていて、結局二人して死を待つ運命の中にいることを知るんだけど、その流れでなぜラダメスが「二人で愛しあったまま死ねる」と納得するんだろう。

①自分はこのまま死ぬのを待つだけである(絶望)

 ↓

②自分は死ぬけどアイーダは生きている(希望)

 ↓

③アイーダは実は一緒にいて死ぬことになる(希望の否定)

 ↓

④愛しあった二人がずっと一緒にいられる(希望)

…③と④の間の飛躍激しすぎじゃね、っていう。普通その間に葛藤とか入らないの…? あまりにも最後が急展開過ぎて。別に『王家』がそうなんじゃなく『アイーダ』自体がそうなんだけど。それとも私は字幕で『アイーダ』を見ているから、原語だとそういうニュアンスはないんだろうか。

でもやっぱり最終的に感情移入出来て、一番共感出来るのはアムネリスなのは『王家』でも変わらずでした。アイーダにもラダメスにも同情できない……。

あと、サカオタあるあるだと思うんだけれど、凱旋の場面であの耳に馴染んだ凱旋行進曲が流れないからそういう意味で「凱旋ムード」にちょっと乗り遅れたことは白状します。

私の持ってるDVDはこれです。凱旋の場面で本物の馬まで出てくる凄い演出。

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